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夢を追い続ける小柄な魔術師:河村勇輝選手のバスケットボール人生

こんにちは、バスケットボールファンの皆さん。今回は日本が誇る小柄な「マジシャン」、河村勇輝選手の生い立ちから現在までを深掘りしてみたいと思います。
172cmの身長からNBAという世界最高峰の舞台で戦う彼の軌跡には、
多くの感動と学びがあります。

バスケットボールは正直、身長がとても大事な競技で、どんなに上手い選手でも身長が低くてプロを諦める人もとても多いスポーツなんです。
そんな河村選手がこの身長でNBAを戦うというのは、本当にすごいことなんです。

Nasya

私は、小学校~高校までバスケットボール部でした。
自身の世代でスタメンを勝ち取り県大会に出場するくらいの実力はあるので、私の経験も含めたうえで、
河村選手の凄さを皆様に伝えられたらと思います。

愛情に満ちた家庭環境と特別な父親の存在

河村勇輝選手は2001年5月2日、山口県柳井市で生まれました。
両親と2人の姉、5人家族の末っ子として育ったのが河村選手。
両親はともに教師で、特に父・吉一さんはバスケットボール選手であり、後に河村選手が通った中学校のバスケットボール部の監督も務めていました。

河村家の広大な敷地には幼稚園の頃からバスケットボールのゴールが設置されていました。父親は自家製のネットやナイター設備も用意し、雨の日には庭に巨大なブルーシートを敷くなど、息子がバスケットボールに打ち込める環境づくりに尽力しました。

しかし、父親の教育方針は特筆すべきものでした。強制的にバスケットをさせるのではなく、河村選手の自主性を尊重。環境を整えるだけで口出しはほとんどせず、良いプレーができた時だけ「よかったぞ」と褒めるスタイルだったのです。

「口うるさく言われたことは全然なくて、僕の自主性を本当に尊重してくれた。バスケットが嫌いにならないように、環境だけを整えてあげようと考える父だったので。それでいて、良いプレーができたときには試合会場からの帰り道に『今日は練習していたことが1回できたな、よかったぞ』と。いわゆる”熱血おやじ”という感じではなかったです。自分のなかでは、父にほめられることをモチベーションにしていたので」

Nasya

お父さんの教育の方針が今の河村選手の原点になっているのを
感じますね。
「お父さんに褒められるのがモチベーション」
そんなことを言われたら、嬉しすぎて泣いちゃいますね。

意外な出会い:バスケットボールとの運命的な瞬間

意外にも、河村選手は最初から「バスケ少年」だったわけではありません
当初は野球に熱中し、父子でのキャッチボールが日課でした。入浴時にも手首を鍛えるトレーニングを行うほど熱心に取り組んでいたのです。

転機は小学2年生の時でした。
地元の野球チームに入るためスポーツショップを訪れた河村少年。
しかし、野球用品よりもバスケットボールのユニフォームに魅力を感じたことがきっかけで、バスケットボールに転向することになります。

「そこにあった野球のグッズには、自分のなかでピンとくるものがなくて……。『他に良いものはないかなぁ』と見ていたら、近くにバスケットコーナーがあった。
そこで、『バスケのユニフォームの方がカッコイイ』と思ってしまって(笑)。
それまで2~3年は野球を熱心にやっていたんですけど、その1カ月間くらいで、急にバスケに変更しちゃいました」

小学2年生から地元のミニバスケットボールクラブに所属し、6歳から触れていたバスケットボールに本格的に取り組み始めました。
小学6年生の時には全国優勝を果たすなど、早くから才能を発揮していたのです。

Nasya

この話を聞いていると、河村選手は、
バスケじゃない他のスポーツでもプロの選手になっていそうですよね。
ちなみに、私は兄がバスケを始めて、
兄に憧れがあり、バスケを始めましたね。

学生時代:才能の開花と覚悟の決断

中学時代(柳井市立柳井中学校)

中学時代も父親が監督を務めるバスケットボール部に所属。
入学当初はそれほど強くなかった部を、中学3年生時には全国大会ベスト16に導くまでに成長させました。
この頃は塾にも通い、勉強とバスケットの両立を心がけていました。

当初は地元の進学校に進学し、教育系の国立大学に進んで体育教師になることを考えていたという河村選手。
しかし、中学時代に福岡第一高校のバスケットボール部監督にスカウトされ、
運命は大きく変わります。

高校時代(福岡第一高校)

バスケットボールの名門校・福岡第一高校に進学した河村選手。
両親が教師だったことから、アスリート特進コースではなく進学コースに在籍し、勉強とバスケットの両立を続けていました。

高校時代は1年生からレギュラーとして活躍し、ウインターカップには3年連続で出場
1年生の時は準決勝で敗れて4位に終わりましたが、
その悔しさをばねに2、3年生の時にはチームをウインターカップ2連覇に導きました
高校3年生の時にはキャプテンを務め、全国大会のタイトルを合計4度獲得しています。

高校3年生だった2019年には、
Bリーグの三遠ネオフェニックスに史上初の高校生特別指定選手として加入し、
最年少得点記録を樹立するなど、早くから注目を集めました。

Nasya

私は、河村選手が高校3年生のウインターカップの時に知りました。
経験者目線でも、スピード、技術、守り(ディフェンス)が周りの選手よりも桁違いで当時はすごい選手が出てきたなと思っていました。

大学時代(東海大学体育学部)

高校卒業後は東海大学体育学部に進学しました。
大学進学を選んだ理由は、高校時代にBリーグでプレーした経験から、将来の夢を実現するためには当時の身体では難しいと感じたためでした。

大学入学とほぼ同時に新型コロナウイルスの影響で大学が休校となり、チームでの練習もできない状況でしたが、この期間を自己研鑽の時間に充て、戦術面やフィジカル面でのトレーニングに励みました。

バスケットボール部「シーガルス」では1年目からレギュラーとして活躍し、
大学1年生のインカレでは東海大学の2年ぶりの優勝に貢献
同時に、2020年12月には横浜ビー・コルセアーズに特別指定選手として加入し、
大学とプロの両方で活動を始めました。

大学2年生の時には、自身の目標に近づくため、
東海大学を中退してプロバスケットボール選手としての道を本格的に歩み始めることを決断します。

「日本を代表するPGとなり、2年後のパリ五輪出場が僕の目標です。目標に近づくためにどうするか考えて、この決断に至りました」

Nasya

大学生になってからの河村選手は、高校時代の時よりも、
フィジカルを鍛えて、プロで活躍できる選手になっていました。
フィジカルを鍛えすぎると体重が重くなりスピードが落ちてしまう傾向がありますが、
河村選手はバランスよく鍛えたのか、スピードが落ちず、
以前よりもシュート力も上がりました。

プロフェッショナルとしての飛躍

Bリーグでの活躍

河村選手は大学中退後、横浜ビー・コルセアーズの主力選手として活躍
2022-23シーズンには最優秀選手賞(MVP)、レギュラーシーズンベストファイブ、
新人賞、アシスト王など複数の賞を受賞する活躍を見せました。

Nasya

プロになってから、すぐに実力を発揮していました。
この時から、世界に通用する選手になるのではないかと
少し期待している自分がいました。
そしてその時がきます。

日本代表として世界の舞台へ

2022年2月に日本代表に初召集され、2023年8月には沖縄で開催されたFIBAバスケットボールワールドカップ2023の日本代表として選出されました。
ワールドカップでは5試合すべてに出場し、華麗なノールックパスや多彩なシュートで得点を重ね、日本のパリ2024オリンピック出場権獲得に大きく貢献。

2024年7月には、パリ2024バスケットボール日本代表の12名に選出され、オリンピック初出場を果たしました。

Nasya

河村選手は、オリンピックで欠かせない選手になっていました。
そして多くの世界メディアが河村選手のプレーに感動し、
トップNBA選手からも称賛の声をいただいたのです。
それから河村選手は世界に羽ばたきます。

NBAへの挑戦:夢の舞台で

2024-25シーズン、河村選手はメンフィス・グリズリーズと2ウェイ契約を結び
日本人選手として4人目となるNBAデビューを果たしました。

2ウェイ契約とは

NBAチームが、主にNBAでのプレー経験が4年目以内の選手と結ぶ、NBAと下部リーグのGリーグの両方でプレーできる育成を兼ねた契約のことです。選手はGリーグを拠点としながら、シーズン中に最大50試合までNBAの試合に出場できます。

NBAでは22試合に出場し、平均4.2分の出場時間で1.6得点を記録。
Gリーグ(NBAの下部リーグ)では平均12.7得点、8.4アシストと存在感を示しました。

シーズン終了後、グリズリーズとの契約延長には至りませんでしたが、
2025年7月にはシカゴ・ブルズの一員としてNBAサマーリーグに参加
サマーリーグでは5試合に出場して平均10.2得点、6.2アシストを記録し、
最終戦では20得点、10アシストの「ダブルダブル」を達成するなど存在感を示しました。

そして2025年7月19日、シカゴ・ブルズは河村選手と2ウェイ契約を結んだことを発表。NBA2年目の挑戦に向けて前進しました。

Nasya

グリズリーズの時は、NBAデビューというだけで、かなり興奮しました。
しかし、NBAの主力として活躍は難しいかなと感じました。
ですが、サマーリーグのシカゴ・ブルズでは、
河村選手がいたからチームが勝利したと確実に実感しました。

「マジシャン」のプレースタイル

河村選手は身長172cmと小柄ながら、
スピードを活かしたプレーと相手を翻弄するパス技術が持ち味です。
特にノールックパスなどの華麗なアシストは彼の代名詞となっています。

サマーリーグではその卓越した技術からアメリカのメディアに「マジシャン」と称されるほどの存在感を示しており、身長の低さをスピードと技術でカバーする独自のプレースタイルを確立しています。

Nasya

今ではアメリカで河村選手を目当てに見に来るファンが
とても多く、試合中の実況者もかなり河村選手のプレーで興奮しているのが、聞いていて分かりますよね。

河村選手が大切にする価値観

河村選手は幼少期からバスケットボールに打ち込む一方で、両親の教育方針もあって勉強との両立も大切にしてきました。特に父親の「自主性を尊重する」教育スタイルが、河村選手の成長に大きな影響を与えたことが感じられます。

河村選手自身も「将来、父親になる日が来たら、子どもの自主性を重んじた上で環境をきちんと整えてあげたい。『うちの父のような』父親になりたい」と語っており、父親から受け継いだ価値観を大切にしていることが分かります。

Nasya

河村選手は通訳を付けず、独学で英語を学び、他の国の選手たちと
交流を深めました。
自身の練習も忙しい中で、英語勉強する河村選手にはとても尊敬しますし、
とても謙虚で、お父さんとのエピソードもとても感動しますよね。

まとめ:小さな体から大きな夢へ

河村勇輝選手は、172cmという小柄な体格ながら、卓越した技術と努力で日本のバスケットボール界の頂点に立ち、さらにNBAという世界最高峰のリーグでの活躍を目指しています。

幼少期から整えられた環境、両親の教育方針、そして何より自身の努力と情熱が、彼を日本バスケットボール界の新たな象徴へと成長させました。

2025-26シーズンはシカゴ・ブルズでの2年目のNBA挑戦が始まります。
渡邊雄太選手のように2ウェイ契約から本契約への昇格を目指し、「マジシャン」の愛称にふさわしい華麗なプレーで世界の舞台での活躍が期待されています。

かつてマイケル・ジョーダンが所属した名門チーム、シカゴ・ブルズのユニフォームを着て活躍する河村選手の姿を、これからも応援していきましょう。

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